人間は皆、弱い生き物で、ふと淋しくなってしまうことは多々あると思います。
誰かに認められたい、誰かに必要とされたい、誰かに愛されていたい、誰かに注目されていたい…etc. 【誰か】とは、やはり他の人を対象にしてしまいますよね。
人ごみの中で生活するほど、寂しさを感じてしまうことの方が多いのではないでしょうか。
もしくは、何かの集団や組織の中で…
その【誰か】の対象が人ではなく神様だったなら、実はすべてに満たされていることに、気づいて欲しいなあと思います。
神様は色んな物を創造なさいました。
例えば空気… 私達は空気があるから生きていられる。 でも、空気って見えないですよね。
普段生活してて、呼吸をしていてもいちいち空気の存在を気にしながら呼吸するわけではないよね。
空気からすれば『僕はこんなに人間達のために頑張ってるのに、誰も見てくれない、気にもしてくれない…』となるでしょうが、でも決して『もう無くなろう』なんて言わないよね。
(無くなったら大変だ〜) 神様から、空気として生物に酸素を供給する使命を与えられ、それを何があっても守り続けています。 それは空気の、神様への絶対的な賛美であるとも言えます。
野に咲く花はどうでしょうか? どんなに綺麗な花でも、人里離れた所に咲く花は、誰に見られるわけでも『美しい』と誉めてもらえるわけでもありませんよね。 しかし、咲いているのです。 花の子孫を残すために、また、小さな虫達の命のために… それはまた、神様から与えられた恵みをすべて受け入れ、神様と相思相愛である証しであるとも言えます。
山奥の木々はどうでしょうか? 人目に触れない木々もあります。 しかし、決して不満を言わずにひっそりと、酸素を空気中に供給し続けています。
植物は朽ちてもまた土となり、栄養となって恵み豊かな土地を作り出します。
空気も花も木々も、誰から見てもらえなくても、誉めてもらえなくとも、神様から与えられた使命をひそかに行い続けています。
【誰から】の対象が、人ではなく【神様】なのです。
誰が見ていなくても、神様から認められているから…
神様から愛されているから…
人間がそれらと違うのは、神様から自由な意思を与えられているという特別な存在だという事です。 神様は人間を自分の姿に似せて創造なさったほどに、他の何より私達人間をスペシャルな存在にしてくださいました。
なのに私達は、神様から与えられた自由を勘違いしてしまい、いつの間にか【私達の創造主である神様を賛美する自由】を忘れ、【人を気にする】ようになってしまいましたね。
神様だけを見ていれば、空気のように、山奥の木々のように、野に咲く花のように、充分に満たされて生きていけるのに…
人間が人間を認めるほど、実は空しいものはないかも知れません。 どんなに一世風靡した芸能人でも、売れなくなったら捨てられます。 どんな金持ちでも、貧乏になったら、お金で繋がった人は離れていきます。 どんないい人でも、何か事件を起こしたら、あいつは犯罪者だというレッテルを貼られます。
だけど、神様はどうでしょうか… 最後の最後まで、決して私達を見捨てる事はありません。 主イエスと一緒に十字架につけられた極悪人でさえ、悔い改めによって天国に導かれました。
私はよく1人で、山に行きます。 時には人が入らないような所にも行きます。 また、たった1人で教会の聖堂の中で聖歌を歌ったり、音楽を捧げたり、お祈りをしたりします。
しかし、決して淋しくない。
何故ならその時は、人を見ていないから…
神様が造った自然を通して神様と対話します。
教会では神様と1対1になります。 対話と言っても、もちろん普通の人間同士の会話みたいのとは違いますが、神様を感じていられる時なんです。
人がいないからこそ、淋しさを感じない…
私も都会生活は長かったですが『隣は何をする人ぞ』で、人間関係が冷たい面もあります。 そんな中で人を見ると、ついつい淋しくなるのも、いたしかたないかも知れません。
だけど、忘れないようにしましょうよ。 神様はいつもあなたに思いを寄せている事を… 少しでも神様を考える時間を持つ事が出来れば、また違うと思うんです。 人ではなく神様を見る…
神様から与えられた自由を、神様の為に使うならば、いつも満たされた状態でいられる。
病に侵されて身動き出来ない人でも神様を見ている人は、すごく自由だと思います。 自由を自分の好き勝手に使っている人は、実はすごく不自由な人なんです。 だから疲れてしまう…
いつも神様から、必要とされ、愛され、認められていることを忘れないでいて欲しいと心から願います。
あなたは、神様から愛されるために、今こうしてそこにいるのですから…
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