先日私は、とあることから教会内で起きるマイナスの出来事に関して
>ある理由から、日本ではある一定の線まではこうした「村八分」は起きにくいのですが、しかしその線を越えると非常に起きやすいことだと思うのです。
と掲示板に書きました。
「ある理由」「ある一定の線」については、きっと興味を持つ人が出るだろうなとは思っていました。
それに関して質問が寄せられたので、改めて機会を設けて特集を組む予定を以前から考えてはいましたが、せっかくですから今日は簡単にその一部を記事として書いておきたいと思います。
今まで多くの本を読んで、また、沢山の人から話を聞いてきましたが、人間の持つ傲慢や、律法主義的なクリスチャン、そして日本ではそれに独特の文化である【和】が融合されて起きる【教会のゆがみ】があります。 確かに村八分的現象は世界中にあると思いますが、日本は特に一般社会でもその傾向は強いと感じます。
日本は【和】を非常に大切にする国です。 ですから、どちらかと言えば論争や異なる意見は本来は好まず、「いいじゃないか。まあまあ、(適当にでもいいから)うまくやっていようよ」という1つの風習があります。 それによって、【和】を保とうとするわけです。 新しい人に対しても【和】の中に入るのが当然という感覚があると考えているのではと思います。
ある一定の線までは…
しかしその線を越えた時、すなわちある人に対してその集団が作る【和】に入らないであろうと判断した時に、集団はその人に対して【村八分】的な行動を開始します。
それが一般社会の組織だけでなく、教会(この場合はあくまで組織としての、つまり人間の集まりとしての教会)の中にも起きているというのが私の意見です。
ただ、全体を語るにはこれだけの理由では語りきれません。 (たぶん、私の考えをすべて書けば1冊の本が出来る量になるかも知れません) 事象によっては教会の信徒集団が間違いを犯すこともあるし、逆に、村八分になった本人に問題がある場合もあります。 ですから、一概にどちらが悪いという簡単な結論は1つ1つの事象によって違いますから簡単には言うことは出来ませんが、いずれにしても【すべてが良くなった】という結果を生み出すことはなく、必ずそこには「傷いた、もしくは腹が立った」と感じる人が生まれます。
派閥もまたしかりで、古い信徒同士がお互いに自分の偉さを主張して、自分の方が教会の中の人間の集団の【和】の中で上に立っていたいという人間の持つ醜い誘惑に負けて間違った裁きの言葉を発する人もまた、そこからの延長線上にあると私は思うのです。
強いて言えば【和】の集団Aと【和】の集団Bの戦いが、日本的派閥とでも言えるのかも知れません。
最初にも書いた通り、【人間の持つ傲慢の部分】【律法主義】【和(正確に言えば和の持つ「負」の部分】、こういったものが複雑に絡んで、同じような現象でも『日本的村八分』が起きる場合もあると思うのです。
しかし、こうなるにはさらに大きな根拠があります。 それは、神の真理(=神の御心に沿う道)をそれぞれの信徒が正しく求め歩んでいたならば、【村八分】的な問題はキリスト教会の中には本来ならば起こり得ないのではということです。
古い信徒になればなるほど、「自分自身の信仰を見直す」ということをあまりしなくなる人が多くなるのではと私は自分の教会の古参信徒を見て思います。 もちろん常に自分の信仰を見つめなおし、常に悔い改めているような素晴らしい人もいると思います。 ただ、残念なことにそのような人は非常に少ないのではと私は感じているのです。 きっと皆、初めは素直な信仰を持ち一途に神を求めていたのではないかと思いますが、どうしても教会の中の人間集団の中でもしくは社会の中で、いつの間にか俗世間的な考え中心になって来て、自分の行いを誇ってみたり、奉仕競争みたいになったり、それが助長すると本来の神の宮であるべき教会なのに「自分が教会を動かしている」と大きな勘違いに陥ってしまうケースも見られます。 人間は完璧ではありませんし、この肉体があるうちは完全にはなりえないものだと私は思っています。 ただ、長い間信徒をやっていると「私は完全である」「自分の信仰や行いが正しい」という勘違いから抜け出せず、しかもその勘違いした人が【和】の長になった時、もしくは「なろう」とした時に、村八分もまた起きやすいということも推測されます。
しかし、何故そのような勘違いに陥るか…
答えは簡単です。先ほど「神の真理」という言葉を書きましたが、その神の真理のすべてを受け入れるのではなく、自分にとって都合のいい部分を利用し、都合の悪い部分を受け入れない形のままで信仰生活に【似た】習慣を作っていってるからではないかと思うのです。
毎週日曜日は教会に行って礼拝に出席して、また、奉仕もする。
しかしそれだけであって、それ以外の日常生活はクリスチャンとしての信仰からかけ離れた生活…すなわち日曜信者…もまた、全国的に多いとも言われています。
日曜日はクリスチャン、普段は他の社会の【和】ゆえにクリスチャンにはなれない…。そういう信徒が日本には多いのではないかと思うのです。
ある本に、それを比喩してこう書かれていました。
【2階建て家の信仰】と…
普段は1階で信仰とは離れた生活を送り、日曜日だけ2階(つまり教会)にあがってクリスチャンになり、礼拝から帰ったらまた1階に下りる。
果たしてそれで良いのでしょうか…?
英国国教会のとある聖職者が書いた本の中に、次のような文があります。
【海外から来た1人の監督が、筆者にこのように言いました。「私の教区には『理論上』は通用するクリスチャンが沢山いますよ。」〜中略〜 この監督は、ある英国国教会員たちのことを言っていたのです。理論上は真理を知っており、しかもそれが真理であると知っているのに、その生き方は彼らの信仰と一致しない人たちのことです。】
これは100年ほど前に書かれたものですが、当時からこのように感じていた人がいたのです。
しかしまだ、神の示す道である真理を知っているならばいいかも知れません。
真理を求めず形式的な信仰生活を考えることが中心になってしまい、いつの間にか方向違いに進んでいるクリスチャンは少なくない(これはもしかしたら世界的に)のかも知れません。
教会の人間集団に問題があって【村八分】や【間違った裁き】がある場合は、こういったところに大きな原因があるのではないかと思います。
それに日本の【和】の持つマイナスの部分が加わった時に、日本特有の陰湿な現象が教会の中でも起こりうる可能性もあると私は思うのです。
そうならないためにも大切なことは、常に「真理を求めて学び、自分の信仰を振り返る」ことだと思います。
自分の教会の牧師や神父のみまたは自分の教派のみの話ではなく(場合によっては非常に偏ってしまうこともあるから)、常に謙虚になって聖書や色んな信仰書から多くのことを学び考え、神の示す道を常に求めることが今のクリスチャンには足りないのではないかと感じます(もちろん尊敬すべき素晴らしいクリスチャンも沢山います)。
また、俗に言う「熱い信徒」が突っ走ってしまった場合、偏った考えになりやすい事例も数多くあります。それが、間違った「○○であるべき」を作り出す原因でもあり、とんでもない裁きに繋がったケースも色んなところから寄せられています。
ただ、これは、私自身もこれからの信仰生活を歩む上で考えていかなければならない問題です。
私もまた【醜いクリスチャン】になる可能性も充分にあるからです。
私の証しにも書いた通り、私の根底にあったものは【欲】の追求だったからです…。
また私は【醜いクリスチャン】を論理でつめていた【醜い反クリスチャン】だったから…
ただ、癒しを求めて教会に来た人々が、古参信徒のゆがんだ信仰によって傷つくことをもっとも悲しむのは誰より神ご自身であると私は思います。
しかし…どこの教会でも、もし教会内にそのような問題があって誰かがこのような問題提議を投げかけたとしたら、【村八分】にしようとする人も出て来るでしょうねえ。
そして、こう言われるでしょう。
「まあまあ、(適当で)いいじゃないか…。うま〜く付き合っていこうよ」
日本の【和】の持つ、いいところでもあり、悪いところでもある…
そして予想されることは、こういった問題提議を起こすこと自体が裁きだという批判をする人も出てくるでしょう(特に日本では)。
また、こういった問題には極力関わりたくないと思う人も少なくないと思います。悪く言えば、見て見ぬふりをすることも在り得ます。
(心理的にはわからなくもありませんが…)
クリスチャンとて不完全は当然だと思います。
でも、不完全なんだから教会の中で人を傷つけたりしても仕方ないのだと開き直ってはいけないのではないかと思います。
教会とは、単なる組織ではなく、建物の種類ではなく、あくまで神の宮でありエクレシアなのです。
使徒言行録の20章28節に次のようにあります。
【どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。】
主イエスが天に帰られた後も、ゆがんだ信仰と常に真っ向から向かい合ってきた弟子達は、やはりすごいクリスチャンであったと改めて思う次第です。
日本特有の【和】の世界。
それはある意味、素晴らしい部分もあります。
しかし、その集団の人間の作ったルールによってその【和】が運営されます。
もし日本人のすべてのクリスチャンが、神の示した【和】のルールに従うことが出来れば、私は日本人は素晴らしいクリスチャンの集団になりうるとも思います。
今回は【和】の持つ特有さを中心に書きましたが、様々な角度からまたこの話題に関連することを書いていきたいと思います。
その「様々」がまた繋がってきますから…
このHPにもあるコンテンツ「信仰という名の虐待」もまた関連していますね。
またいつか、続きを書きましょう…
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