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もうすぐ3年。(2006.12.2の日記) |
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あっという間に今年もあと1ヶ月。 早いものですね。 洗礼を受けて、あと6日で3年になります。 中学1年の時に某大学の聖書研究会に入ってから 30年近くの時を経て、やっと神を心から受け入れた記念すべき日です。 この3年間思ってきたことは、クリスチャンとして真理を求め深く知れば知るほど、神の愛を受けている幸せと同時に、 この世俗と神の求めとの大きなギャップに悩んだり苦しむことも当然のごとくあるということです。
「この世俗」とは、もちろん私たちが生活している社会のことでもありますが、この世にある教会組織やクリスチャンも実は含まれています。もちろん私自身も。
クリスチャンも教会も、神の働きによってなりえるものです。 しかし残念なことに、クリスチャン自身の生活も、教会の運営も、神の働きをないがしろにしてしまい、いつの間にか人間のもつ欲中心のものと変化してしまっているケースも少なく無いのが現実です。
このことに関しては、現実的に感じている人も大勢いると思いますし、また多くの出版物がキリスト教書店にも並んでいます。 私も様々な本を読んだのですが、その中で 19世紀後半から20世紀初頭にかけてご活躍された 英国国教会の高名な聖職者が著した本の中には、次のようなことが書かれています。 -------------------------------------------- クリスチャンは @「唯一の神がおられる」 と信じ A「イエス・キリストは神の子である」 と信じ B「やがて裁きが来る」 と信じていますが、悪霊も以上の3つを信じている。 そのように信じることが悪霊を救うことにはならない。 --------------------------------------------
…と
当然、悪霊はキリストの3日目の復活も、神の子であると同時に神ご自身であることも知っているでしょう。 それは私たち人間以上に、強く知っているに違いありません。 クリスチャンもまた、同じように信じています。 (信じてない人は、もはやクリスチャンとは言えないでしょう) しかし、信じたからと言って、 「これで天国に行ける」などと安易に思わないことだ大切だと私は思うのです。 中には、信じてはいないが、儀礼的に言葉だけの告白をしていればよいと思っている人もいるのも事実です。 それはそれで悲しいことですが…
また、同書にはこのようにも書かれています。
-------------------------------------------- 教会員であるなら、それでクリスチャンである十分な証明にならないでしょうか?(中略) 最近のこと、海外からきた1人の監督(主教のことだと思います)が、筆者にこのように言いました。 「私の教区には【理論上】は通用するクリスチャンがたくさんいますよ」(中略) この監督は、ある英国国教会員たちのことを言っていたのです。 【理論上】は真理を知っており、しかもそれが真理であると知っているのに、その生き方は彼らの信仰と一致しない人たちのことです。 彼らは偽善者でしょうか。 あるいは、自分自身を欺き、これでいいのだと心底考えているのでしょうか。 --------------------------------------------
「これでいいのだ」と考えているクリスチャンも、 決して少なく無いのではないでしょうか。
真理を求めようとせず、 普段の生活はキリスト者とは程遠い生活をし、 日曜日になると教会に行って 「私は日曜日には教会にきていますから立派なクリスチャンだ」 という大きな誤解をしている人…
「神は寛大なお方だから、懺悔すれば赦してくれるんだから何をやってもいいんだよ」 と言って、神を自分のご都合主義においている人… これは、神社に行ってお賽銭をあげてパンパンと神頼みしているご利益信仰と何の変わりもないかも知れません。 (もしくは寺の檀家か)
また、同書に次のように書かれています。
-------------------------------------------- 私が教会の活会員〜役員・日曜学校の教師・各クラスのリーダー・野外伝道者・宣教団体の理事長・牧師・監督・法王〜であるとしたら、それで私のキリスト教を十分に説明することにならないでしょうか。 パリサイ人は、神のための奉仕となると、誰よりも熱心で、誰よりも几帳面でした。 宗教は、まさに彼らの命そのものでした。 パリサイ人は、神殿に行くこととなると。誰よりも規則正しく、奉仕は誰よりも精力的、他人を教えるとなると誰よりも熱情的、捧げ者は誰よりも寛大な心で、祈りは誰よりも念入りでした。 彼らはすべてのものの十分の一を捧げました。 パセリやハッカの十分の一まで捧げたほどです。 ところが彼らの宗教は、自我から生まれ、自我によって支えられ、自我を中心とするものだったのです。 --------------------------------------------
【彼らの宗教は、自我から生まれ、自我によって支えられ、自我を中心とするものだった】
なおかつ、彼ら(ファリサイ人)はそのことに気付いていなかったということが非常に重要なことではないでしょうか。 神よりも自我中心的信仰を持っているクリスチャンは、今でも多くいるのではないでしょうか。 もちろん私もまた、その自我を少なからず持ち合わせていることは自覚しています。 しかし、だからこそ常に自分の信仰に疑問を投げかけ、真理を求めずにはいられないのです。 何故なら、神は私の魂を救ってくださった唯一のお方だからです。
私の参加しているmixi内のコミュに「こんなやつでもクリスチャンだ」というのがあります。 私は思います。 このコミュに参加している人々の中には、現代におけるファリサイ的信仰者より深く神を信じている素晴らしい人も中には大勢いるのではと…
何故なら、自分が神の求めに応じきれていないことを、彼らは自覚しているからです。 それはとても大切なことで、自覚していればいつか悔い改めることも出来るのです。 自覚がなければ、よほどその人に対して特別に神に力が働かない限り、悔い改めることは難しいと思われるからです。
マタイ15:8〜9 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』 マタイ5:20 『言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』
身に沁みる聖書の中のみ言葉です…。
最後に、教会運営について少し書きたいと思います。 私も、様々な方々の付き合いや、以前の仕事柄、多くの教会を見聞きしてきました。 そして、明らかに神の働きに応じて運営されている教会は、 「信徒達すべてがのびのびとして明るい」 「聖職者や教役者が信徒に対し健全な信仰を教え育てている」 「信徒自らが多くを学ぼうとし、真理を求めいる」 「年配者も若者をたて、また、若者達も年配者を尊敬している」 「神のために・人々のために・教会のために伝道していこうという信念があり、信徒皆がそのことを感じている」 というような共通点があります。 (もちろんその他にも沢山あるでしょう)
それに対して、神よりも自己の欲が主体となっている教会は、教会内で派閥があったり、信徒同士、もしくは信徒と聖職者や教役者との間で揉め事があったり、建物の維持管理や行事をうまくこなすことに躍起になったり、それぞれの委員会等が神の求めよりも自分がやりたいことばかり考えていたり、そうなると教会は衰退していきます。
信徒がやりたいことではなく、神の求めに応じて、そして神の働きの中で運営していくことが大切なのです。
教会とは、単なるコミュニティーでも、サークルでも、寄り合いでもないのです。
マタイ5:13〜14 『あなたがたは地の塩である。 だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。 もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。』
主よ、まだまだ地の塩、世の光となれない私たちではありますが、 どうかあなたの御霊によって私たちすべてのクリスチャンと、 この地上のすべての教会を成長させてください。 そして1人でも多くの人々が、 主よ、あなたの福音に授かることができますように…
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2006年12月02日 21:36 |
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>神よりも自我中心的信仰を持っているクリスチャンは、今でも多くいるのではないでしょうか。 確かにいますね。 これに気付かず人を傷つけてる熱心なクリスチャンも中には存在します。 「あなたは義に過ぎてはいけない。」 私も右にも左にも偏らない中道的信仰を心がけています。 | |
2006年12月04日 17:24 |
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●marcelinoさん。 はじめまして。mixi内で「聖書」で検索していたら、何となくココで、足(手が?)が止まり、あなたの自己紹介や日記を読んで、あなたが、「聖書」に対して大変真摯な態度で接しておられるという印象を受けました。
私は、北海道に住んでいるクリスチャンですが、21歳で信仰を持ち、もう65歳になりました。私はキリスト教を信じているのではなく、キリストを救い主と信じているのです。そのように言うとある方は怪訝な顔をされるのですが、キリスト教もキリスト教界も、過去に多くの過ちを犯して来たからです。
もちろん、過去だけではなく、厳密に調べると現在も多くの点で、聖書の真理と違うことを教えている教会はたくさんあります。また、三大異端(モルモン、エホバの証人、統一協会)の他にも、異端に近いものがたくさんあります。 また、私は、聖書が誤りなき神の言葉(神が啓示された唯一の書)であると堅く信じています。
家内が「多発性骨髄腫」という血液疾患(癌)で、難病の妻の看病をしながら、キリストの福音を出来るだけ一般の初心者にも分かりやすいように伝えるために、「ブログ」で二年ほど書き綴って来ました。 拙い文章ですが、みことばには、人を救う力がありますので、機会がありましたら、いつでもお立ち寄り下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
私は、いかなる宗派にも属していません。しかし、同じ考えで集まっている人たちの横の交わりはありますが、それは組織ではありません。でも、ある人たちは、私たちのことを「プレ(リ)マス・ブレズレン」と言ったりしますが、他の人たちがどのように言おうと、自分たちはそのような信念で集まっています。
このmixiに入会したのは、ある意味では自分の「ブログ」に導くためであって、単なる交わりのためではありませ。 長い目で見て、何か純粋な福音を広めるための役に立つことができればと願っています。
私のマイミクには、世の人や宗派の方、カトリック信者も、その他、いろいろな方が混ざっていますが、あくまでも伝道の対象としてです。
大変、お邪魔しました。これで失礼いたします。
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2006年12月05日 00:05 |
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>>イクスーシアさん コメントに感謝いたします。
>私も右にも左にも偏らない中道的信仰を心がけています。
クリスチャンやその団体の中にも、思想的に超右や超左がいますね。私もそういう意味では、中道は非常に大切だと感じています。 同時に、熱いだけの信仰と冷めた信仰というのがあります。 前者は妄信になりやすく権威に無条件で従いやすくなり、ともすれば牧師(もしくは神父・司祭)依存になってしまい、権威者が間違っていても正しい判断が出来なくなることもあります。 また後者は、知識的信仰に走ってしまい、魂で神を感じることが出来なくなってしまいがちです。 変に熱過ぎず、また冷め過ぎずといった中道もまた、必要なことかも知れませんね。
>>Dosanko・Sさん
初めまして
私の拙い文章を読んでくださり、ありがとうございます。 私は今45歳ですから、あなた様の信仰暦は私の人生の時間とほとんど同じですね。 ブログを拝見させていただきました。 時間的都合からすべてを読むことは出来ませんでしたが、 Dosanko・Sさんが心の底から神を信頼し、 またそれを人々に一生懸命に伝えようとしていることが とてもよくわかりました。 半世紀近くの信仰の道のりと神の恵みが、 文章からひしひしと伝わってきます。 素晴らしいの一言です。
Dosanko・Sさんのように、心から人々に福音を伝えようとしているクリスチャンは、正直言ってそんなに多くはないように感じていますが、そんな中でこうして巡り合ったのは、本当にありがたいことです。
私の所属する教会にも、残念ながら宣教に関してあなたのような思いを持っている人、み言葉に対する十分な知識と知恵を持っている人を私は知りませんし、それは非常に寂しいことで、だからこそ私も個人的な宣教・伝道を続けています。
私個人的には、日本聖公会の中の教区・教会と所属(籍)はあります。 そういう意味では立場は違いますが、それはあくまで組織の教会法によるもので、個人的には組織に依存するつもりはまったく無く、そういう意味ではDosanko・Sさんと思いは似ている所もあるかも知れませんね。
もちろん、信仰暦の浅い私なんぞは、Dosanko・Sさんに比べたらまだまだ足元にも及ばないかも知れませんが…
奥様の看病の合間を縫って、ブログを更新して福音を発信し続けていることには本当に頭が下がります。
どうぞ、これからも奥様のお体を大切になさっていただければと思います。
また、キリスト教はその内側に数多くあれど、キリストの購いは1つですね。 ですから
>キリスト教を信じているのではなく、キリストを救い主と信じている
というDosanko・Sさんの言葉には賛同いたします。
何かの形で、協力しあえればいいですね。 | | |
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