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  我が娘から学ぶ信仰(2006.3.22)

私には19歳になる娘がおります。
私の自分勝手な都合により、もう12年も会っておりませんが…
私がまだクリスチャンになる遥か前、娘の幼稚園選びで単なる私のプライドから、当地では名門といわれるキリスト教の幼稚園に入れました。
仕事を理由になかなか家族で食事をすることは多くありませんでしたが、それでもたまには子供達のために時間を割いた時もありました。

「さあ食べよう!いただきま〜す」と言う私は、いつも娘に注意されていました。
「パパ、ちゃんとお祈りしてからじゃないとダメでしょ」
と言って、まだ4・5歳くらいだった我が子は、食事の前には必ずお祈りをしてくれました。
それは決して義務的なものではなく純粋に神に感謝するものであったことは私にもわかりました。
なんの飾りもなく、幼い我が娘はただ一心に祈っていました。

 

人間とは身勝手なもので、もし同じ言葉を大人や他者から言われたとしたならば、例えその人が我が娘と同じように純粋な気持ちからそのように言ったとしても、なかなか素直になれない事もあるようです。

クリスチャン同士でも
「敬虔ぶって」「いい人ぶって」
と、批判する人もいるくらいですから。

しかし、もしその人が純粋な子供のような信仰を持っていたならば、果たして批判できるでしょうか?

 

【はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。】
マタイ18:3〜4

 

この中にある【自分を低くして】という言葉は、単に「謙遜」を意味するのではなく「自分勝手、自分中心である事を捨てて、主に忠実に生きる」という意味が非常に大きく含まれているように思います。

例えばパウロはファリサイ派の人々に対し、
「主はこう教えているのだから、そのようにしなさい。今のあなたがたは間違っているのだ。」
というような苦言を呈しています。

きっとファリサイ派の人々から見れば、パウロに対して
「何言ってんだよ!勝手に私達を裁いてんじゃないよ!自分の意見を押し付けるんじゃないよ」
という気持ちを持った人も少なくないでしょう。

またパウロは、ある意味妥協的な行為をしたペトロをさえ批判しています。

 

もし現代に、純粋な信仰によるパウロのような人がいたとしても、それに対して「謙虚でない、裁くな」と一方的な批判をしてしまうクリスチャンが多いかも知れません。
つまり時として、「神が人間に対して求めていること」を主張する人に対しての批判は、批判する側がファリサイ派的な感覚に陥っている場合もありうるのです。

 

ただし、正しい事を主張する人も気をつけなけれななりません。
他者に自分の姿を見て欲しくて正しい事を主張する人もいるかも知れません。
中には、主張することによって他者を見下し、優越感にひたる人もいるでしょう。

同じように「正しいことは正しい」という場合でも、パウロの場合は決して相手を見下すためでも、カッコウつけるためでもなく、そこには非常に純粋な子供のような信仰があったのではと思います。

私達は「神はこう言ってるではないか」と主張する人に対して、果たしてどのような思いからそう言っているのか、充分に吟味した上で、もしかしたら言われた側が悔い改めなければならない場合もあるでしょうし、状況によっては相手に注意を促す必要もある場合もまたあるかも知れません。

 

犬飼政一著の
「現代の信仰と宣教−その神学的再考と生涯学習−」
の中に次のようにあります

 

【日本のキリスト者の場合、信仰とは何かという基本問題が十分に認識されていないために、ややもすれば形式的、短絡的に理解する傾向があり罪を避けて救いに与るという消極的な生き方となりがちである。
罪はむしろもっと信仰と矛盾することとして理解されるべきだし、掟や戒めは教会の定めや倫理的命令としてよりも福音の内容として、自分がキリストを信じることからの当然の結論として理解されるべきであろう。
だから自分の信仰と矛盾することはしないという基本的決断とその具体的行動はもちろん、信仰者としての、より積極的な生き方を模索しないということは、信仰者としての自己の同一性を失うことになる。
つまり、もはや実質的にキリスト信仰者ではない者になってしまうと考えるべきであろう】

 

よく「私は敬虔ではないから」と言う人がいますが、敬虔であるということは決して「完全」を意味するものではなく、また、何かの行いだけで示されるものではないと私は思うのです。
私たちが日々犯す罪や過ちに対して自らが謙虚になってそれを認め、例えなかなか神の理想通りにはいかないとしても、悔い改めながらそれを目指していこうとする姿勢があれば、それは充分に神が私達に求める姿であると思いまし、敬虔であると言えるのではないでしょうか。
しかし、それさえしようとない…すなわち神よりも自分を中心にしてしまったら、「敬虔でないクリスチャン」ではなく、犬養氏の言われる通り【もはや実質的にキリスト信仰者ではない者になってしまう】のかも知れません。

 

子供のような純粋な信仰…
純粋に神を認め、神に従っていた幼かった我が子から、10数年たって学んだことが沢山ありました。

元気でいる事を心から祈っています。
そして出来るならば今でも、神を主と仰ぎ歩いていることを…

    [1] 
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by 管理人 マルセリーノ(marcelino)

2005.4.15

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