869年から東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブル)で開催された公会議。フォティオスを断罪。
コンスタンティノポリス総主教であったフォティオスは不正にその地位を得たとしてローマ教皇によってその地位の正当性を疑問視されたが、それを無視した上で逆にローマ教皇を批難し、破門を宣言した。
皇帝バシレイオス1世と教皇ハドリアヌス2世はこの事態を収拾しようと公会議の召集を決定した。この会議は最終的にフォティオスの排斥を決議した。さらに五大司教のランク付けを、コンスタンティノポリスをローマに継ぐ地位に置き、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの順とした。
このフォティオスの排斥は東方正教会には受け入れられなかった。彼は後に名誉回復され、コンスタンティノポリス総主教に復帰した。そのため、この公会議以降の公会議はカトリック教会によってのみ承認され、東方正教会には承認されないことになる。
東西教会は長きに渡る政治的・文化的差異によって常に分裂の可能性を秘めていたが、最終的に1054年にローマ教皇レオ9世とアレクサンドリア総主教ケルラリオスが互いに破門しあうかたちで東西教会は決定的に分裂することになる。
(ローマ教皇とアレクサンドリア総主教の和解は1965年のパウロ6世とアテナゴラス1世の和解まで1000年を待つことになる。)
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