1179年3月にローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接していたラテラノ宮殿で行われたカトリック教会の公会議。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世との対立によって引き起こされた問題を解決するため、教皇アレクサンデル3世によって召集された。
フリードリヒ1世は1159年に選出されたアレクサンデル3世に対して含むところがあり、その正当性に異議を唱えて対立教皇としてヴィクトル4世を立てた。
教皇と皇帝は15年にわたって争ったが、ついに皇帝側が屈する形で1177年に「ヴェネツィア和約」が結ばれた。このとき、ヴィクトル4世の後継者であったカリストゥス3世は擁護者であったはずのフリードリヒ1世の手で廃位された。
教皇はこの和約を受けて教会内の混乱を収拾すべく公会議の召集を宣言。こうして第3ラテラン公会議がはじめられた。この公会議以降は参加した司教の名簿が残っている。
会議参加者は当然イタリア人が多かったが、イングランドやアイルランド、フランス、ドイツ、スペイン、さらに中東の十字軍国家などから300名を超える代表者が集まった。
議題は幅広かったが、南フランスで流行していたカタリ派は異端の宣告を受けた。この会議に代表者を送っていた信徒運動のワルドー派は異端の宣告こそ受けなかったが、説教の許可はおりず、以後、地下運動になることで異端へと変質していくことになる。ワルドー派に関しては教会によって異端にされていったというほうが適切であろう。
公会議で採択された主な決定は以下のようなものである。
1.教皇選出では投票者の三分の二以上の賛成が必要であること。 2.「リヨンの貧者」ワルドー派の求めた「信徒による説教の許可申請」への拒絶。 3.カタリ派への破門宣告。 4.カタリ派との戦いに参加するものを十字軍戦士と同様に扱うこと。 5.司祭の複数教区掛け持ちの禁止規定。 6.聖職者の教養向上のため、司教座聖堂(カテドラル)に教師を配置すること。
※カタリ派
11世紀〜13世紀の北イタリアから南フランスに広がっていたキリスト教の一派。南フランスではアルビジョア派(アルビ派) (Albigeois) とも呼ばれた。
世界の物質世界(人間の肉体も含めて)は、神の創造によるものではない。ある悪魔(サタン)により作られたものである。
もと精神的存在として、天にあった人間が悪魔の手により地上に連れてこられたとする。地上世界のものであるローマカトリック教会も悪の支配下にあるとみる。これは初期キリスト教の非主流派グノーシス主義やユダヤ教の非主流派神秘主義などの影響である。 十字架・聖体拝領・教会堂を神への冒涜として否定する。 ローマ教会を退け、対抗した教会および、独自の司教・教皇をたてた。
※ワルドー派
ヴァルド派ともいい、12世紀の中世ヨーロッパで発生したキリスト教のグループの1つ。
もともとはピーター・ワルドーによってはじめられた信徒宣教運動で、清貧を追求し、禁欲的な生活をすることをテーマとした。
自らを「リヨンの貧者」あるいは「ロンバルディアの貧者」と呼んだワルドー派運動は1173年ごろ創始された。彼らの特徴は清貧の強調と、信徒による説教、聖書の(ラテン語からの)翻訳であった。教義的には決して間違っている部分はなかったが、カトリック教会によって異端宣告を受け、迫害されることになった。
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