「信仰」という名の虐待の問題に対して、私たちクリスチャンはどういう態度をとらなければならないでしょうか。
まずキリスト教の中で、この問題が存在すると認めなければなりません。虐待などないと言うならば、何も解決できないと思います。もちろんクリスチャンとしてこの問題を認めるのは簡単なことではありません。キリスト教にとってそれは一つの汚点だからです。
しかし、キリスト教とは愛と救いの宗教だと思い教会に来た人たちが、このような虐待を受けた時に、どれほど絶望的なことでしょう。それに対して、クリスチャンが事実を認められないならば、イエス・キリストのメッセージは「偽善な教え」となるのではないでしょうか。
認めるということは、キリスト教の教えが正しいと思っていても、クリスチャンも人間であり、誤りを起こす可能性があることを頭に入れておくということです。
私は、13世紀のように人を裁くための宗教裁判〈異端審問〉を望んでいるわけではありません。しかしクリスチャンとして、謙虚に受け止める必要があると思います。キリスト教界は自分のこととしてこの問題を捕らえ、見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
新約聖書において主イエスは、「信仰」の名によって虐待をする人たちを強く批判しました。そのことについてアメリカの牧師デビッド・ジョンソンは、次のように述べています。
主イエスは罪人を批判したことがありません。その当時の宗教者と彼らの律法主義「宗教システム」に対して激しい論争をしました。主イエスはマタイの福音書23章4節で、「信仰」という名の虐待をする宗教者を批判しています。
「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分ではそれに指一本さわろうとはしません」
多くの人たちはその当時の律法主義という「宗教システム」とその宗教者から、傷や差別などを受けたので、自分たちの心が癒されるために主イエスのところに来ました。マタイ9章36節に、主イエスのところに来ていた人たちの精神的で霊的な(魂の底の)胎動がはっきり表れています。
「弱り果て、打ちひしがれている」
ここで使われているギリシャ語のことばは、外からくるストレスによって表れてくる感情を意味しています。とくに律法主義(宗教システム)からくるプレッシャーです。
この律法主義を変えるために、神はご自身のひとり子主イエスを遣わされました。主イエスは傷ついた人、疎外された人、差別された人などのために来ました。マタイ11章28〜30節に主イエスの使命がはっきり書かれています。
「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
主イエス、そしてキリスト教の本当の使命は、人々の心を解放することです。人々を奴隷にすることではありません。
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