「信仰」の名のもとで虐待が起こる教会で、牧師は信者を獲得するために良き理解者を装っています。「愛のシャワー」を浴びた人たちは強い義理を感じているので、本心を伝えることが難しくなります。
このような環境の中で、信者たちは質問や批判をすることができなくなってしまいます。批判することに対して、強い罪責感を感じているからです。もしも彼らが質問や批判をしたならば、牧師や長老たちは「あなたの批判は牧師、教会や神様に対しての冒涜である」とか、「今まで私たちはあなたを愛してきたのに、なぜこんなわがままを言うのですか」「あなたは霊的におかしくなっている」「あなたは神様を悲しませている」などと責められます。
『マインド・コントロールの恐怖』という本の中でスティーヴン・ハッサン氏は、告白の儀式についてこう述べています。
「『告白』の過程と結びついて、罪と恥の意識をかきたてる源泉になっている。どのぐらい強烈かは別として、イデオロギー的運動というものはかならず、その人の罪と恥という心理的仕組みを掌握して、その人の変革に強烈な影響を与えるのである。これは『告白』の過程の中で行われる。そしてこの過程がまた、それ自体の構造を持っている。人々が自分の罪を告白する集会には、まわりからのきまったパターンの批判と、そして自己批判がつきものである」
一般にクリスチャンは神様とイエス様によって罪を赦していただくために「悔い改めの祈り」を行い、その赦しによって心が解放されますが、「信仰」という名の虐待が行われている教会では、「悔い改めの祈り」は意味が全く違います。それは、「告白の儀式」ということばの方が当てはまると思います。
その内容は、信者の人格を無視して、牧師と教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求され、個人のプライバシーをすべて奪うものです。そうすることで、牧師あるいは教会に対しての批判や疑問を感じることが「罪」であると思うようになります。
そして、心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、牧師や教会の考えに無意識のうちに自分も合わせなければならないと感じるようになります。さらに牧師にすべてを告白しているので、牧師はそれを利用し、いろいろな場面で脅してきます。
「信仰」という名の虐待が行われる教会の人間関係は、ピラミッド型になっています。横の関係が全く許されていません。縦のつながりのみを重視します。その関係の中で牧師はすべてを支配します。どんなことでも、信者たちは牧師の許可がなければ何も決めることができません。信者たちはお互いに相手の行動を牧師に密告します。
「あるメンバーと話をするために、いつも夜になってから、だれにも見られないように隠れて会わなければならない」と一人の信者が証言しています。
こうしたシステムによって牧師は信者の生活のすべてを管理することができます。それによって信者たちは物事を考える時間を奪われ、なかなか現実を見ることができなくなるのです。
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