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いろいろな出来事や人物を通して、神様と私たちの関係を書いています。
初心者にはもちろん、すでにクリスチャンとなられた人にも、面白いお話があるかも知れませんね。
醜い心 |
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インドで働いていた、ある新聞記者の話です。この新聞記者はある夜、家の近くの川で泳いでいました。すると、向こうのほうに、1人の女性が洋服を脱いで、行水しているのを見ました。彼は、誘惑に駆られました。 実は、数年前から、同じような誘惑と戦っていたのですが、妻に対する忠誠を保っていました。しかし、今回は、余りにも誘惑が強くて、彼はついに、負けてしまったのです。 自分の良心の呵責から逃げるかのように、彼はその女性を目がけて、必死に泳ぎました。彼女のすぐそばまで行きました。ところが、水から上がって、近くからその女性を見ると、何と、年を取ったお婆さんだったのです。しわだらけで、しかも、重い皮膚病にかかっていました。 歯が一本も残っていないそのお婆さんは彼の顔を見るなり、にこっと笑いましたが、新聞記者は、「なんて醜いお婆さんだろう」と、ぞっとしました。 その瞬間です。彼はまた、「私の心こそ、なんて醜いんだろう」と思ったのです。
マルコによる福音書7章18〜23節で、イエス・キリストは次のように言われました。
イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。・・・・・・人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
イエス・キリストがこの箇所で指摘しておられるように、人間の心の中に罪があるため、造り主なる神のみもとに立ち返って、心を新しくしていただかない限り、清く正しい人生を歩むことなど、できません。
ニーチェは、造り主なる神の存在を否定する哲学者として有名な人ですが、彼は、高い道徳的基準や罪の悔い改めや謙虚さを強調するキリスト教のメッセージが、人類の進歩を妨げる、最低のものだと批判しました。また、人間の品格を落とすような教えを徹底的に葬り去らなければ、理想的な人間社会は実現しないと主張したのです。ちなみに、ニーチェの哲学に基づいて、行動した人がいます。あらゆる道徳による束縛や良心の呵責から、ドイツの国民を解放したと豪語した人間です。その名前は、ヒトラーです。
イエス・キリストの話は、人間のプライドを傷つけるものだと言えるかも知れません。しかし、キリストは人間の心の状態を非常に正確に描写 しておられるのです。そのことは、人類の歴史を調べても明らかですし、また、自分の心を吟味しても、はっきりと分かることです。 どんなに科学的に進歩して、色々な問題を克服できても、どんなに知識を増やして、色々なことが分かってきても、私たちは心の中にある罪には打ち勝てません。人の前で立派に振る舞うことができるかも知れません。うまく人の目をごまかすことができるかも知れません。 しかし、私たちは心の中では、自分がいかに汚い、いい加減な人間であるかということが分かっているのです。
私たちは、神の前で正直になって、取税人と同じ祈りをすべきです。 「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」 (ルカによる福音書18:13)
この祈りから、神のみこころにかなった、新しい人生が始まるのです。
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