神様って不思議だね。どんなに否定しても、どんなに逆らってきても、最後はこんな僕を赦してくれた・・・。
僕の人生は、一言で表せば神との戦いであった。
神の存在は感じていたが、それは全ての宗教を超えた、大元(おおもと)の神として論理的に考えていた。
しかし、僕の人生には、とても邪魔な存在だった・・・。
僕が社会の中で求めてきたものは、名誉・地位・金・色・物。そのためには、手段を選ばなかった。
当時の僕は
《何が神だ!何が愛だ!僕が全てであり、僕の体も人生も僕自身のものであり、自分で自分をつかさどる。不可能を可能にし、欲しいものは何でも手に入れてやる!》
と考え、ありとあらゆる欲を満たしてきた。
《良くなるも悪くなるも自分次第、神様なんてくそくらえ!》
それが僕だった。
酒も浴びるほど飲んだ。
また僕は、愛を否定し、誰をも愛することが出来ず、また、受け入れることも出来なかった。
そして、祈るよりも行動が第一と考えていた。
ビジネスでの成功の裏には、僕は多数の犠牲者も出した。上司を蹴落としたり、ライバル会社を潰したり、恨まれるような事もした。
しかし最大の犠牲は、我が子だった。
僕は、自分自身、父親を知らずに育った。また、母親と暮らしたのも、3年間ほどだった。いろいろ嫌な事や辛い事、沢山経験しているのに、僕は自分の欲望の為に、我が子に同じ苦しみを与えてしまった。
僕は・・家族さえ愛せなかったのだ。
その後は嫌な事が続いたよ。離婚や神戸の地震で、一時すべてを失った。体を患った。一緒に暮らしていた人に金目の物をすべて持っていかれた・・・。人間不信に陥った。 もっとも信じられなかったのは、自分自身だった。
そして僕はそんな中で・・・罪に縛られていった。
育ててあげることが出来なかったという、《我が子に対する罪》。
そしてもう1つ、《僕の母親に対する罪》。
子供の頃、母親から包丁を突きつけられて、あんたが生まれたから私は幸せになれないんだと言われた。僕の根底には、生まれたこと自体が罪であるという意識があった。
僕は、自分の存在をとことんまで恨んだ。
《この罪は、永遠に消えないんだ。また、消してはいけない。一生背負っていかなくてはならないもの。決して許されるべきものではない。死ぬまで苦しみを背負うのは当然のことなんだ・・・》という強い念にかられた。
そして自分を責め続けた。そうするしか出来なかった。
死ねば楽になれると考えた時期もあった。
神をますます否定した。神を言葉でののしった。僕を救おうとするクリスチャンに対し暴言を吐いた。どんなにいい言葉を並べられても、祈りで解決しやしないと、祈りさえ拒否した。ただの偽善にしか聞こえなかったのだ。
しかし、そんな僕に、神はついに直接働きかけた。3つの奇跡を示された。
第一の奇跡、それはある日いきなり訪れた。人間らしい心を持たない僕に、《愛》という感情を突然もたらした。それは単なる恋愛とかではない、命そのものとも言えるような、自分ではコントロールできない力だった。未知の感情に、僕は苦しみもがいた。必死にかき消そうとした。しかしそれは、余りにも無駄な事だった。生まれて初めて、愛の存在を認めた瞬間だった。
第二の奇跡、それは罪の赦し。罪を背負い苦しむ道を選択した僕に、見えない力が入り込み、罪を解放しようとした。僕はまた、戦った。甘えてはいけない!赦されてはいけない!・・・。しかしその見えない力は、どんなに抵抗してもひるむ事はなかった。何ヶ月もの戦い、なかなか受け入れることは出来なかった。しかしいつの間にか僕の魂は癒されていた。初めて敗北を感じた瞬間だった。
第三の奇跡、それは僕の肉体に起きた。実は僕は、肝臓とすい臓を患い、普通の人ならばとっくに死んでいたであろう体だった。いつ死んでもいい覚悟は出来ていた。しかも追い討ちをかけるように、糖尿病を追加した。しかし、先日の検査の結果、肝臓とすい臓に関しては、とりあえずの段階で、ほぼ完治状態と判断された。糖尿病に関しても、正常ではないにしても、かなり改善されてきていることがわかった。まともに薬なんか飲まず、食生活にもそんなに気を遣わなかったのに・・・。
僕は・・・神に勝てなかった。神は、僕の魂と肉体を救い、そして教会へと導いた。そのために日曜日休みの仕事を与えてくれた。すべて神の示すままに動き始めた。
神は、直接、また時には、沢山の人々を通して、僕に愛を注いでくれた。いや、きっと、今までずっと、様々な形で注いでくれていたのだろう。僕はそれに気づかずにいたんだよね・・・。
確かに人間は、父親と母親の間に生まれる。環境によってはその為に苦しみを背負うこともある。
しかし、神だけは愛を注いでくれていた。神をも人をも愛せなかった僕に・・・。
神は、僕の魂の父であったということを、僕は知った。
そして、主イエスが、僕の身代わりになって十字架にかけられていた真実を、罪の赦しによってはっきりと確信した。主は・・・間違いなく救い主だったのだ・・・。
2003年12月7日。僕は、長野市にある教会にて洗礼を授かります。神は、例え気づかなくても間違いなく愛してくれています。
目に見えないものしか信じられない僕に、心の目を開かせてくれた。
僕はもしかしたら、今まで何も見えていなかったのかも知れない、いや、真実から目を背けていたのかも知れない。
しかし・・・神様は・・・本当にすぐそばにいるのです。僕とともに・・・そしてあなたとともに・・・。
by マルセリーノ (2003年・入信前に記す)
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