|
キリスト教の教えは、聖書の教えそのものです。
罪とは…
救いとは…
クリスチャンとは…
教会とは…
祈りとは…
そのような疑問に、1つ1つ聖書から答えています。
1歩踏み込んでキリスト教の教えについて知りたい人には、とても参考になると思います。
あなたに人生の意味の答が、もしかしたらここにあるかも知れません。
18 誘惑 |
|
|
|
クリスチャンは、どのようにして罪の誘惑に抵抗できるでしょうか。人が救われたといっても、苦闘も始まります。その人にはまだ古い自分、つまりアダムからの罪の性質が残っており、その性質が絶えず罪に引き込もうと誘惑するのです。しかし、同時にその人は新しい性質を持ち、つまり罪を嫌い、正しいことをしたいと望む神様の息もかかっています。この二つの相反する性質が常に葛藤します。どちらが優先するのでしょう。 その答えは、その人の選びにかかっているのです。(ガラテヤ5:16-17; ローマ8:5-8)
古い罪の性質は悪いもので、容易に治すことはできません。クリスチャンが天国に帰る時まで、取り除くことも改善することもできないでしょう。イエス様が十字架の上で死んだ時、神様は、古い罪の性質を取り除かれました。クリスチャンが、それをもはや死んだものとして取り扱うように望んでおられます。ですから、それを刺激したり、満足させたり、働く機会を与えないようにしましょう。(ローマ13:14)
クリスチャンは、新しい性質の影響によって良い行いをするようになります。それは励ましあったり、育むものです。世の悪、肉欲、悪魔を拒否することは、すなわち、クリスチャンが誘惑に立ち向かうことです。それと同時に、心に与えられた新しい性質を育てていく必要があります。次のことは、それをどのように実践するかという提案です。
T.聖書を読み、学び、暗唱し、黙想し、従いましょう。(詩篇 119:9, 11)
み言葉が罪を犯さないように私たちを助けてくれることが分かります。ですから、毎日み言葉を読む時間を持ちましょう。(コロサイ3:16)
U.絶えず祈りましょう。
誘惑にあったら、いつでも神様の助けを求めましょう。(ヘブル 4:16) それを乗り越える力は、神様がくださいます。(1 コリント10:13) もし、自分自身の力で守ろうとするなら、確実に失敗します。
V.不敬けんな人たちとではなく、仲間であるクリスチャンとの交わりを深めましょう。(箴言 1:10-16; へブル10:24-25)
未信者と一緒に働いたり、一緒に住んだりしている場合は、私たちの言葉と生活を通して証しましょう。その人たちと共に、この世的な楽しみや娯楽に親しまないようにしましょう。 (エフェソ 5:10)
W.罪を犯したら、すぐに神様に告白しましょう。(1 ヨハネ1:9)
考えにおいても言動においても、罪を犯し天の父を悲しませたと感じたなら、すぐに告白して、神様の赦しを求めましょう。それを、夜までや週の終わりまで延ばさないようにしましょう。(箴言28:13)
X.神様のために熱心になりましょう。
「怠惰は、悪魔が働くのに好都合」とある人は言いました。あなたの体を神様に捧げ、神様が用いられたいように仕えましょう。(ローマ6:19) 仕事は十分にありますし、あなたは最高のご主人に仕えることになります。
Y.運動をしましょう。
体を動かすことは、有益です。(I テモテ4:8) クリスチャンの体は、聖霊の神殿です。適度な方法で健康を維持し、体力をつけるべきでしょう。しかし、スポーツのとりこになり、霊的なものがおろそかにならないように気をつけましょう。(1コリント6:19-20)
Z.古い罪の性質を取り除きましょう。
読むもの、見るもの、行くところ、聞くものに気をつけましょう 。(コロサイ3:5-9)
[.新しい性質に活力を与えましょう。
あなたの心が、キリストで満たされるようにしましょう。イエス様のことを考えながら、同時に悪いことを考えることはできないはずです。(コロサイ 3:10-14) 清い生活の秘訣は、キリストで満たされることです。そうすれば、礼拝し、崇拝している対象に似てくるはずです。 2 コリント3:18には、み言葉の鏡によって、キリストを映し出せば映し出すほど、私たちはキリストに似る者となることが約束されています。私たちに宿っておられる聖霊が、私たちをキリストの似姿へと変えてくださいます。ほかのものに熱中すれば気が散り、自分に固執すると苦悩が増えますが、キリストで満たされるとき、喜びが与えられるのです。
\.最後の一言。
今まで述べたように、誘惑に陥らないようにすることは、たった一度の経験ではありません。いつも神様に頼って生きていくことが大切です。私たちが何歳になっても、どんなに聖書を学んでも、イエス様から目を離すと、誘惑に身を任せてしまうという危険がつきまといます。ある大変信仰深い人は、神様が自分を守ってくださり、邪悪な者として死なないようにと祈っているそうです。私たちにも、このような祈りが必要です。(コロサイ3:1-4)
|
|
|
|
|
|
|